ピアノ


時間でさえ、触れられない領域がある。言葉?
いや、違う。泣くがいい。叫び続けるがいい。
夜に吐息を吹き付ける沈黙のように。白い肌。
ベッドの軋み。男物の帽子。掌。道徳でさえ、
触れられない領域がある。白いシャツ。窓硝
子の唇。唾?ガラス?カーテンの向こう。男
の影。目は?耳は?唇は?鼻は?手は?手の
汗は?男の声。抱き寄せられる少女の声。少
女の肩。白い服が揺れる。紅いネクタイ。唇。
耳。耳たぶ。耳の穴。白い歯。白いシーツ。
白いベッド。蝉の声。白い壁。少し汚れた。
髪の毛。美しい。黒く。光る。阿片の話。蔦。
どこまでも嘘。どこまでも本当。水は煙草に
映る、蚊帳の中で眠る。男の顎髭でさえ、触
れられない領域がある。鉢植えに水をやる。
耳を、噛む。息。歩く。ハーモニカの音。犬
たち。愚かな、犬たち。ピアノ。働かない男。
少女の溜息。フォーク。スプーン。パンの耳。
ネクタイは深く傷付き、唇は、はにかみさえ
も見せる。「神は、私や、私の弟でさえも罰
するのです。」脇の下は、男のもの。女のも
の。であっても、地球のもの。とは言い難い。
躰?躯だけは知っている。たとえ頭が何も知
らなくても。躯だけは知っている。雨。少女
の声。雨音。ラジオのニュースが、嘘をつい
たことを少女は黙っている。快楽を貪る老人
は黙っている。木のそばで男は笑う。歩く。
火は湖に灯る秘密のピアノです。誰にも教え
ない。誰の耳へも届かない。少女のいらだち。
悲しみ。木のそばで男は笑う。木のそばで男
は笑う。木のそばで男は笑う。木のそばで男
は笑う。薬を飲んだ。ピアノの音。少女は落
とされる。深い海の底。蒸気船の音だけがし
てる。汽笛の。男は、男は、男のままだ。今
もって。だが、少女は、少女のままではない。
苛立ちを隠すまで。帽子は、海の底。嘘はつ
かない。かといって、本当のことを、話すわ
けでもない。背中。細い。白い。降る。雨が。
降る。精液に濡れた、洋服箪笥の陰で、笑う。
誰が?少女が?あの憎むべき男が?男は夢を
見る。愛する人には手がなく、足がない。た
だ、男は静かな息を辿るだけ。「私の頬に手
を触れているのは、いったい、だれ?」
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