透明


透明な一人

海の底にころがる小さな石ころのような

透明な時間

掌に結ばれた約束

遥か遠い青い海の、白い雪の降るところ


誰もがその事件の後、

ほんの少し哀しみについて考えてみたけれど、暫く立つと、

その哀しみも何処か遠くへと消えてしまって、忘れてしまった


溜息が奇妙なほど歪んでそれが夜になって

彼女は泣いた

犬みたいに

ネコみたいに

猿みたいに

ねずみみたいに

昔飼っていたハムスターみたいに

消しゴムの消しカスみたいに

アイシャドウが目の下を真黒く流れ落ちても

掃除機のように

壊れたラジオのように

彼女は泣き続けた

記憶は優しくないと思う

いつも冷たい感触でからだを包む

それだからこそ愛おしいと

たまにだけどそう思ったりもする

曖昧なものに惹かれ

言葉に踊らされて

(見せかけの哀しみに涙はいつも弱いのだ)

震える指先で触れた感情は傲慢で

溜息に満たされた昨日はおのずと現実と誰かが名付けた、

曖昧で信用に足らないものに揺り動かされる

だから

彼女は泣いた

喧噪を造り出し何も産み落とさない機械のように

暗闇を所在なく浮かぶ三日月のように

夕暮れの血液色した太陽のように

水たまりに浮かぶ青いネオンのように

窓硝子を激しく打ち付ける雨のように

大きな煙突から立ち上る煙のように

空き地に捨てられた自転車のように

やわらかな羽のように

けれど、

芯はしっかりと

見上げた夜空の無数の星の粒のように

彼女は涙を流し続けた

男の付いた嘘は優しかったし

(あまり魅力的と言える男ではなかったけれど…)

指先だけは特別奇麗だったものだから

彼女は男をなんの躊躇も無く信用したし

静かな愛情を感じもした


無条件に優しく

無慈悲に黴臭い地下室のそこ



発見されたとき

皮は無く

美しかった黒髪と白い骨だけが残っていて

彼女は泣いた

湿った土の匂いに耐えられなかったわけでもなく

(長い年月横たわっていたせいで鼻が慣れていたせいかもしれない)

罪深さを恥じたわけでもなく

運の悪さを呪ったわけでもない

忘れ去られる怖さも知っていたし

ゆっくりと時間をかけて透明になっていく自分が美しいとさえ思った

けれど

彼女は泣いた

砕けた窓硝子の破片のように

錆び付いた取っ手の扉のように

塗装の剥げ落ちた木製の椅子のように

(それは子供用で小さく彼女は腰掛けた事がなかったけれど)

床にころがる無数の缶詰のように

誰からも理解されず苦悩のまま死んでいった芸術家のように振る舞う男が

どこか憎みきれなかったように

彼女は泣いた

愛情と呼ぶほど、深いものでもなく

まして陳腐なものでもなく

理由らしいものはどこにもなく

男の喉仏の動きに見とれた瞬間

彼女の言葉という言葉は飲み込まれ

記憶はぷっつりと途切れ

喘ぎ声と

遠くで名前を呼ぶ誰かの声が

真暗でひんやりとした溜息になぞられた、小さな光に切り取られた


意外なほどの速さで季節が幾度となく巡り

あおいビニルシートに覆われて戸外へと運びだされてゆくとき

ビニルシートのわずかな隙間から見上げた眩しい空には

天気だというのに、風が細かな雪を力強く巻き上げていた


「ああ…そうだったのか…」と

呟いて

彼女は数年ぶりに小さく笑ったのだった




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