月の屋上


さよならの時間だけが朝の冷たい測道で踊っていた
溜息が小さな川に流れ、言葉が踏みしだかれた枯れ草のように小さな叫び声をあげた
瞼の裏に幾つかのとりとめもない残像が張り付いていて
ピアノの音と、見知らぬ国の言語が聞き覚えのあるやわらかなメロディーを奏でた
女の指先が男の長袖シャツの生温い温度を伝って
黒というよりも緑色に近い髪の毛を掻き乱した
「一匹の蠅の目が俯瞰する無数の世界がパラソルを広げ、
遠い暗闇へと落下して夜の匂いになるのよ。」
三日月色の目をした女が三日月を真横にしたような感じに目を細めて言った

きのう、夜の鉄塔から一人の老人が飛び降りて
今朝、その屍を見つけたのは隣町から越してきたばかりの少年だった

幾つかの出来事がリズムにのり、時間の音符に絡み付いた欲望へと寄り集まって
涙の流れる速度で、フィルムは逆戻り
女は目にしたすべてを忘れ
繰り返す意味のないプロローグに身を任せていた

それは、何処かで聞いたことのあるおきまりの話だったけれど、
演じる老人の表情があまりにも真に迫っていたものだから、
男は終わりない螺旋の出口を探すように引き込まれてゆくのだった
(貝殻を耳にあて、いつの時代の波の音かを聞き分ける海音師という職業があって
老人はそれを昔見た映画の俳優を思い出し、見よう見まねで演じていた)
奇妙でいて美しい映像が頭の中で何度も繰り返し流れて
男の指先に二重の虹がかかり星空を埋めていく
きらきら輝く花火のしっぽを捕まえて少年はほうき星になる

少年が見ている夢の続きは
たとえば
真夏の昼下がり
午睡に忍び寄る鈍い汗のていたらく
遠い異国の市街地
銃を構え乾いた土埃に青い目を細めている兵士のいらだちに似ていた

「どこまでもつづく地平の終わりを探すことの無意味さに気がつけば
おまえが思っているよりも人生は単純なものだとわかるし、
人としてもっともっと優しくなれる。」と言った老人の分身は
捨て猫のように夜の街路を徘徊する
たった一人で
ぶつぶつと言葉の泡を地面にまき散らして
いつかの記憶をよすがに冷たいてのひらを無意識にさする、記憶はいつもあいまいで
女の手が老人の手首を引いてゆく瞬間すら覚束ない
「青い目をした無口な狐がもうすぐ迎えにくる。」と
老人は、かって少年だったころのように目を輝かせて女にニッカリと笑う
空を見上げると花火のように流れ星が無数に落ちてくる

少年は冷たく脈のない老人の手を力強く握りしめる
男は自らにある殺意の感情にさえ気付かず少年と女の後ろに立ち尽くし、
いつまでも虹の出口を探している
「終わりの終わり…それははじまりの瞬間に似ているのかな?」
頭の中できらきらと花火が炸裂する
一瞬、目の前が真っ暗になる
男の記憶の中、女が夏の陽射しを浴びてうれしそうに笑う
 
君はと言えば、
酔いつぶれて
ひとり
朝の閑散とした測道で冷たいアスファルトに横たわり
見知らぬ女の体に必死になってしがみついている夢を見ていた

遠くへいってしまわないように

遠くへいってしまわないように

そう、
誰も
遠くへいってしまわないように


不意に
静かなまあるい月の屋上で
誰かが「さようなら。」とつぶやいた





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